グラン・トリノ

クリント・イーストウッドの示唆に富んだ作品だと思いました。
エンディングを含め、演者としての最期を飾るにふさわしく、監督としての明確な問題提起。咀嚼しきれず、エンドロールで正直うーんと唸りました。それは、昨年のオスカー作品賞の『ノーカントー』と同じような深い悩み。今見た事実は何だったんだろうと振り返らずにはいられない気持ち(いや、両方とも合衆国以外の賞で評価されるとは思ってないですけど)。
土台に幾つかのキーワードがあると思うんです。劇場からの帰り道に頭に浮かんだのは、「多人種・異文化への嫌悪感」「超大陸で居続けているプライド」「"自由の国"のあるべき姿」「"銃が必要"である常識」などなど、共通してアメリカが抱える、結論を付けられないでいる問題の存在です。
イーストウッドといえば西部劇のガンマンが想起されます。それを当の本人は、西部劇といえばインディアンから土地を奪ってマジョリティとなった白人たちが銃を構えて勝利する、という勧善懲悪劇・・・言い過ぎかもしれませんが、そうした過去を意識しています。何らかの形で省みていると思うんです。というのもこの作品は、マジョリティとしての白人居住者の対極として、東洋人を据えているんです。自分たちがかつて侵略したネイティブ・インディオに敬意を払い、同じくかつて引きずり連れてきたアフリカ系の黒人にも敬意を払い、自分たちよりも後からやってきた東洋人こそを相手にしているのです。すなわち、アメリカに住もうとする新参者に対する警告。
アメリカは世界中の挑戦者たちが平等に勝負する挑戦の場であり、かつ居場所を失った人たちが逃げてくる駆け込み寺でもある。アメリカに行けば何かが変わる、何かが得られる、何かから救われる。そのような、皆が平等に生活することのできる超大国なんですね。市民の本音の前に立ちはだかる大いなる建前こそがアメリカ合衆国のプライドであり、市民の大いなる誇りなんだと思うんです。その建前の裏の「本音」をあらわにすることこそが、白人社会を謳歌したクリント・イーストウッドの演者として最後のお役目であり、バトンタッチする東洋人を含めた不特定多数に対する最期の舞台姿だったのだと思うのです。高齢にも関わらず、真剣に意思を貫き通したイーストウッド氏に敬意を表します。
多人種・異文化の中でお隣さんと共同生活をするということは、「ようこそ自由の国へ」と胸を張る国でさえも建前と表裏一体の本音があり、島国のわれわれには得難いジレンマなのでしょうね。