筑紫哲也さん死去

http://mainichi.jp/select/today/news/20081108k0000m040100000c.html
筑紫哲也氏、逝く。
これほどまでにただただ残念な訃報も珍しいと思います。戦中を含めた昭和の姿を知りつつ、平成の現代に移り行く政治・経済・社会・文化を幅広く見やり、多くの意見を発信してきた貴重なオピニオン・リーダーでした。
とりわけ、昭和から平成の頃に多感な時代を過ごした身としては、「異論反論オブジェクション」や「多事総論」が現代社会の教科書でした。茶の間で久米宏、寝しなに筑紫哲也、見つめる世界は舛添要一。寄らば大樹のマスメディア時代から、我が我がのマルチメディアの時代へと変貌を遂げる過渡期の中で、自分が何か強い意見を持った時の座標軸となるのが氏の発言でした。非常に幅広い視野で社会を見やることの出来た数少ないジャーナリストであったと改めて思います。
享年73歳。全てを引き継げぬまま先達を迎るのは非常に辛いですが、尊敬と感謝を込めて、合掌。

風のガーデン 第一話 スノードロップ

相変わらず贅沢なドラマ。というのが最初の感触。イヤミじゃないですよ、好感触です。
巨匠と呼ばれるほどの脚本家が「大人のドラマ」を作ると長ゼリフは必然のようで。「鬼ばかり」と向こうを張らんばかりの、溜めの長いシーンの連続でした。無音とか表情とか間(ま)とか、思いっきりカッコつけたシーンが次々にぶつけられてきて、その連続に挽きこまれっぱなしのうちにあっという間のエンディングを迎えた感じでした。ストーリーとしては、今日だけでだいぶ色々と種蒔きがされたので今後の展開に期待です。
オンエア開始を控えたこの大事なタイミングで緒形拳の不幸の知らせが届き、なんだかバツの悪いイヤな鳴り物入りでのスタートとなりましたが、それはそれ・これはこれで年内楽しませてもらいたいものです。丁寧に入れたコーヒーでも飲みながら、ゆっくりと視聴させていただきます。
ただし、お願いがあります。コーヒーの豆で思い出しました。「優しい時間」のように自分の好みにばかり走りすぎずに、軽すぎず重すぎず、今日の初回のようにチェロの響きやスロージャズを聴いているときのような、深みのある雰囲気を大切にしてもらいたいですね。今回を見た人の中で緒形拳目的の人は今回を見ただけで満足かもしれませんが、倉本ワールドが好きで見た人はきっとまた続きを見たいと思ったはず。だから、続きを見たら期待外れだったというカッコ悪い流れにならないように。高い視聴率を期待するよりも、ブラウン管の向こう側で「大人のドラマ」に期待をしている人たちの心にスーっと入ってくる今回のテイストをキープしたまま、蒔いた幾つかの種からそれぞれ美しい花を咲かせてもらいたいものです。
そういう意味で、このドラマそのものが大きな花を咲かせる、もう一つの「ガーデン」だと思います。冒頭のシーンに幾つか挿し込まれた富良野の花畑の風景は相変わらずきれいでした。そんなきれいなしかし控えめな、そんな花が沢山咲く春、そんな季節を思い起こされるような「大人のドラマ」を期待しています。

めざましテレビ - 15周年特別企画

日々の暮らしの中で、ニュース番組は生活の一部です。
今日の天気は?お肉や野菜の値段は?社会のルールが変わった? 必要な情報源だけど、常に与えられていることが当たり前で、普段は有難みを感じることはありません。日々の暮らしでお皿がすごくきれいになったから感動して涙することはないですよね。決まった時間に会社に行ったり、テキパキと家事をこなしたり、目の前の作業をいくら片付けていってもお祭り騒ぎになることはないんです。日常ってそういうことだと思うんです。
であれば、ニュース番組のあるべき姿は、無駄なく的確な情報を伝える、そんな当たり前でいることが第一の役割ということになります。でも・・・。
みんなが過ごす社会は、人々に気づかない内に日々変わり続けています。そして人々は日々成長しています。そんな中で全く変わらないことは下り坂に見えてしまうんです。だから、適切な情報を提供することは本当は決して当たり前の作業ではなく、常に人々の生活の「当たり前」で在り続けることは、簡単なことではないんです。
今週、めざましテレビが15周年記念の特別番組を放送しました。
それは何の記念日でもない平日のある日の出来事で、視聴者への「当たり前」の提供を邪魔しないように慎ましく、しかし情熱的なチャレンジでした。そしてめざましファミリーたちが総動員で立ち向かった結果、目標が達成した知らせを聞いて、なぜか泣けてきました。
なぜ泣けたのか?なぜ感極まったのか? それは、今回の企画の演出による恣意的なものではなく、日々の生活の中の小さな喜び、例えば、お皿がきれいになったり、料理に一味加えたらすごく美味しくなったり、駅に着いたと同時に電車がホームに滑り込んできたり、そんな些細な喜びの積み重ねのような、当たり前のことを繰り返しながら、小さな工夫を加えながら、沢山の視聴者の定番であり続けたことこそがもたらした必然だったんだと思います。
翌日、めざましテレビは何事も無かったように普段通り放送していました。
「当たり前」に感謝を、そして「当たり前」であり続けることに賛辞を。今回の企画に寄せて。

診療報酬:開業医、月平均7万5千円減 5分ルール導入で - 毎日jp(毎日新聞)

このニュース。
   http://mainichi.jp/select/science/news/20080704k0000m010022000c.html
これって、医者にも患者にもメリット&デメリットがすごくあります。心療内科のお医者さんで、ハイハイハイと聞いてシャンシャンと終わって、後はいつもの薬を処方してさっさと済ます診察を揶揄して「5分診療」という言葉を聞いたことがあります。

日頃お医者さんにはよくお世話になってますが、患者からの目線で見ると、診療時間と診察の質・量とのバランスは医者の腕次第で、5分で解決できる優秀な先生もいれば、相談しようとしても右から左でてんでお話にならないセンセイもいます。シャンシャン短く終えられることに不満を感じたら、話が途切れないように聞きたいことを引っ張り出す、患者としての腕も問われるのではないでしょうか。

「ちゃんと診療してくれない」という現状の改善によるものだとことですが、居場所がない老人たちがたむろしてい病院もあれば、閑古鳥が鳴いているヤブ医者、毎日が野戦病院のように忙しくて患者を捌ききれない無名の名医、医者不足の田舎の診療所の非常駐医。平均して75,000円減とのことですが、色々なケースが存在するのに一律のルールを敷くことが金銭面以外のしわ寄せにつながらないか、なにかもやもやとした不安を覚えます。

とにかく、まず考えなければいけないことは、医療とサービス(有料)との垣根が曖昧になろうとしていること。自分の主治医がこのルールに応じてやり方を変えるのか、あるいはお構いなしなのか。こうした折に触れて、付き合い方を見定めることが肝要でしょうね。

人志松本のすべらない話 ザ・ゴールデン

ごもっとも。

松本人志の番組」があるんじゃなくて、「松本人志が出ている番組」があるんだ。
http://d.hatena.ne.jp/onodan/20080621#1214063529

どデカい壇上で強烈なライトを浴びて、明らかにやり過ぎたパーティー会場(←ホントはこの演出がいきなりスベってる)にうすら笑いを浮かべながら入場した松本。タイトルコール、拾う、ほめる、回す、場の緊張感を和らげる。すべらない話がすべりかけているのを見るや否や、ソッコーで助け舟。最後は審査委員長。
こうなると、上のお方がおっしゃる通り、もはや松っちゃんが主役の番組とは言えず、「人志松本」という役柄を与えられた大看板でしかなかった。こういうの「ネーム・ライツ」っていうんでしたっけ?例えばヤフースタジアムとかCCレモンホールみたいな、宣伝看板。そんな立場。深夜で始めた時は、こんなはずじゃなかったのに。松本が盛んに繰り返した「いいですよ〜、いいと思いますよ〜」というフォローは、自分がねぎらわれる側の芸人だったらきっと逆に凹むだろうな。。
まあ、うだうだ言いながらも、ニヤニヤと見ているんですけどね。

めざましテレビ

藤原「武蔵」vs小栗「小次郎」
かっこ良過ぎてため息が出ます。二人とも演出家蜷川氏の元で過酷な修行をこなしてきた、秘蔵っ子とも言える名舞台俳優。その力は映画やテレビなどでも証明済みです。厳しいスパルタにより磨かれてきた二人のキラキラまばゆいほどの巌流島対決はどれだけの名シーンとなるのか、わくわく感が抑えられません。二人とも何をしても許されるだけのイケメンであって、何をしていてもかっこ良い。
でも、やっぱりホントにかっこいいと思えるのは、二人ともそれにおごることが無いこと。常にチャレンジャーであること。現状に甘えず、常に走り続ける彼らには、まだまだこれからも貪欲に芝居に磨きをかけてもらいたいものです。